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どんな神様でもよいのか

geralt / Pixabay

救いはただ一つ

このようにいうと、クリスチャンは他の宗教を否定している、と思われるかもしれない。

もしかすると、宗教紛争が起こるのはそういう考えだからと思われるかもしれない。

そう思われる方には、ぜひ聖書を知ってほしい。聖書はまったく紛争を起こす理由なんてないのだから。

聖書を信じるクリスチャンにとって、様々な宗教を信じる人も、神様を信じない人も、皆同じ人間だと考えている。そして、神様を信じない人は、「神様いない教」の信者だと思っている。

なので、確かに「○○教」では救いは得られないと考えているけど、同じように「神様いない教」の信者も救いは得られないと考えているだけなのだ。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

使徒4章12節

だから、クリスチャンにとって、○○教どうこうではなく、「クリスチャン」か「そうでない」かの違いだけなのだ。

神様のもとに国籍や地位、性別等は関係ない

国籍がどうとか、社会的地位がどうとか、性別がどうとかはクリスチャンにとって大事な事ではないのだ。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

ガラテヤ3章26,27節

すべての人は罪びと

聖書を見ると、すべての人は罪びとであり、自分も罪びとであり、特定の人を攻撃する必要なんて全くない。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ローマ3章23節

宗教、哲学、思想、政治、地位、性別、LGBT等、そんなカテゴリは重要でなく、
すべての人は罪びとであり、救いが必要なのだ。
クリスチャンの関心事は、そこに救いがあるか、ないか、だけなのだ。

皆初めからクリスチャンじゃない

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

エペソ2章3節

私たちもまた罪びとであり、生まれながらにしてクリスチャンではなく、主によって救われた一人なのだ。

神を愛する前から、神は愛している

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

第一ヨハネ4章9〜10節

神様は、私たちがクリスチャンになる前から愛してくださっていると信じている。その愛してくださっている一人ひとりを、クリスチャンでない事を理由に争う事はありえないのだ。

だから、クリスチャンは、神様いない教の友人、イスラム教の友人や、ヒンズー教の友人がいてもいいし、その友人が救われてほしいと願っている。

救われてほしいと願っているのに、戦うなんてありえないことだ。

国籍は天にある

はっきり言って、この世の中の領土がどうとか、どうでもいい。
領土争いの原因はクリスチャンじゃない。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

ピリピ3章20節

クリスチャンにとって、国籍は天国なのだ。

 

惑わされてはいけない

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。

ルカ21章8節

クリスチャンでない人には、「クリスチャンと名乗る者」の話ではなく、聖書に耳を傾けてもらわなければないし、私たちクリスチャンは、人の話に惑わされてはいけない。

神はただお一方。救いはただ一つ。

クリスチャンは、堂々と唯一の救い主を語っていく者として、聖書を信頼し、自分の話を神の言葉とする者に注意しなければいけないのだ。